はじめに 「考察」ブームの背景
近年、SNSや動画配信サービスを中心に「考察」という言葉が流行しているらしい。作品の謎を解き明かすことに熱中する若者たちの姿は、単なる娯楽消費を超えた文化的現象ということだ。(世情に疎い私。。)
三宅香帆『考察する若者たち』は、この「考察ブーム」を世代論的・社会論的に読み解こうとする試みである。
本書の出発点は、若者が「ただ楽しい」「ただ美味しい」といった素朴な感覚だけでは満足できなくなっている、という観察だ。情報過多の環境に育った世代は、常に「より意味のある時間」を求めている。だがその「意味」は、タイパ(=タイムパフォーマンス)やコスパ(=コストパフォーマンス)と同質のものに見えなくもない。
蛇足かもしれないが、たまたま私は現在並行して岡潔の本を読んでいる。岡潔は数学者である。数学者といえば合理主義の総本山のような学問領域の人である。その岡潔が、数学の社会的有用性についてこう言っている。
「私は数学なんかして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうとスミレのあずかり知らないことだと答えてきた」(春宵十話)
古い例を出したからかもしれないが、こうも好対照な例はないだろうと思う。
「考察」と「批評」の違い
さて、三宅は「考察」と「批評」を明確に区別する。
- 考察:作者が仕掛けた謎を解く行為。正解が存在し、語り手の個性は不要。
- 批評:作者すら意図しなかった意味を読み解く行為。正解はなく、語り手の個性が必要。
この区別は、現代の若者が「ただの自分の感情」を軽視し、安心できる「正解」を求める傾向を説明する。この点について私なりに例を考えてみた。村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」について、「村上春樹は実はゴレンジャーから着想を得た」というのは私の「考察」、「本作は個人の『色』が鮮明化されているというのは時に個人主義の行き過ぎとなる危険性を孕んでいるということを描いたものである」というのは私の「批評」である。前者は謎解きゲーム、後者は社会的意味の提示である。
努力と報われなさ
三宅は「努力」への若者の感覚にも光を当てる。
- 若者は「努力できる人は生得的にそういう資質を持っている」と考えがち。
- 努力の価値は認めるが、「努力しても成功するとは思えない」と感じる。
この感覚は「転生もの」人気にもつながる。異世界で血が流れる物語は、現世が努力できるほど平和であることを照射する。だが同時に「報われる努力の場が社会にない」という不安の裏返しでもある。
ただし、ここで著者が「昔は努力すれば報われるのが当然だった」と述べる点には疑問が残る。努力が報われないことはいつの時代にも存在したはずであり、世代論として単純化しすぎている印象もある。
陰謀論と「意図」への欲求
「正解」への欲求は陰謀論にも通じる。強大な力の存在を仮定することで、出来事に「意図」を見出す。しかし、これは若者に限らずほかの世代にも見られる現象だ。陰謀論は「安易な答え」に飛びつく知性の問題でもあり、世代論だけでは説明できない。
我が事を例に出すのも恐縮だが、私は①コロナ禍のときにコロナワクチンを打たず、また②現時点でマイナンバーカードを作っていない。
しかし、①コロナワクチンを打たなかったのは、邪悪な陰謀を持つ政府が信用できなかったからではなく、十分な治験を経たうえでなければ製薬を市場に流通させないのが安全なプロセスであったはずにも関わらず、緊急性の名の下にその前提を無視することは別の医療問題を引き起こす可能性が高い、という判断に基づくものであり、②まだマイナカードを作っていないのは、邪悪な陰謀を持つ政府が信用できないからではなく、情報システムにはバグがあるという一般的知識を前提に、機微な個人情報を預けるにはシステムが「枯れる」のを待ってからでも遅くはないだろうという判断に基づくものである。
つまり、陰謀論は安易な「答え」に飛びついてしまうという知性の方に問題があるということも考えられる
プラットフォーム社会と「数値化された欲望」
令和のヒットコンテンツは、プラットフォーム上で「クリック数」「リピート数」といった数値に基づいて流行が決まる。ここでは「個人の感想」よりも「正解を当てるゲーム」が優位に立つ。AIやアルゴリズムが提示する「とりあえずの正解」に依存する構造は、安心を与える一方で危うさも孕む。
世代論か? それとも社会論か?
三宅は「考察する若者」という世代像を描き出すが、読んでいるとたまに「世代論」ではなく「社会論」へずれてしまうところが目に付く。
努力が報われないのは社会の問題なのか?
「正解」への欲求は若者特有なのか、それとも情報技術の進展による全世代的な変化なのか?
著者の議論は時に世代論として単純化されすぎているように感じる。しかし、AIやプラットフォームが「正解」を提示する時代において、私たちが「とりあえずの正解」に安住してしまう危険性を指摘する終章は、文芸評論家としての切実な叫びにも聞こえ、個人的に感じるところがあったのは間違いない。
さいごに
本書は、現代の文化現象を「考察」と「批評」の対比を軸に読み解いた意欲的な書である。
世代論としての説得力には揺らぎがあるものの、AIやプラットフォーム社会における「正解」依存の危うさを示す点は鋭い。
読者にとって本書は、単なる「考察ブーム」の解説を超え、自分自身の「批評的まなざし」を問い直す契機となるだろう。
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