今年の夏、帰省先から帰る途中、家族旅行も兼ねて奈良に行った。大阪から奈良へ電車で向かう途中、鴫野、放出、徳庵、鴻池新田と進み、住道駅を通過したときは大きく胸が高鳴った。
「ここが宮本輝『春の夢』の舞台なのだ」
しかし車窓から見えた町は意外にも大きく、小説に描かれていたような寂れた下町の雰囲気はなく、むしろ現代的な印象であった。
昭和の時代から40年以上が経っているのだから当然なのかもしれないが、どこか残念な気持ちも覚えた。宮本輝の作品に登場する昭和の下町は、川三部作などでもそうだが、あまりにビビッドで生々しく、読む者の心に強烈な像を刻みつけるからだと思う。
物語の中心にいるのは、就職を間近に控えた大学生・井領哲之。
善良で真面目な青年だが、父が残した多額の借金の取り立てから逃れるため、住道のアパートに身を隠す。引っ越し初日、帽子掛けを作ろうと壁に釘を打ち付けた際、偶然一匹の蜥蜴を打ち付けてしまう。哲之はそれでも生き続けるその蜥蜴を「キン」と名付け、奇妙な共同生活を始める。
動けないまま生き続けるキンは、哲之自身の境遇を映す存在であることは容易に読み取ることができる。しかし物語が進むにつれ、キンの象徴性は単なる「境遇の写し鏡」以上のものへと広げていくのが、宮本輝の宮本輝たる所以であろう。
キンは「生きながらにして動けない存在」として、哲之の閉塞感を体現する。
しかし、磯貝や中沢、沢村千代乃といった人物たちの死生観や思想と交錯することで、キンは次第に「人間存在そのものの象徴」へと変貌する。
- 磯貝は「不幸な人間は不幸なまま輪廻を辿る」と語り、キンの釘を抜けと促す。ここには「解放」や「救済」の問いが潜んでいる。
- 中沢は『歎異抄』に傾倒しながらも、哲之に「観念的でしかない」と批判される。ここは解釈がとても難しいところであると思うが、キンは、観念と実践の間に横たわる溝を示す存在として描かれているように思われる。
- 沢村千代乃は茶を「生死を覗き見る儀式」と捉え、死を恐れずに生きる姿勢を体現する。しかし彼女の最期は醜悪な死に顔として描かれ、「人間の本質的な顔」を突きつける。ここにもキンの存在が見え隠れしている。
そして最後にキンは消えてしまう。これは「象徴の消滅」であり、哲之が自らの生をどう引き受けるかを問う余白として残されているように感じられる。
また、『春の夢』には、哲之を取り巻く多様な死生観が描かれる。
- 磯貝:輪廻と不幸の連鎖
- 中沢:観念的な救済とその限界
- 沢村千代乃:茶道を通じた生死の儀式
- ラング夫妻:異国から死に場所を求めて来日する存在
これらの人物はそれぞれ異なる「死の見方」を提示し、哲之の内面に影響を与える。キンはその中心で、哲之の存在を映し出す鏡であり、同時に我々読み手自身の「生と死の問い」を呼び起こす存在になっている。
『春の夢』は物語として非常に巧みに構成されている一方、一つ一つの描写の意味を考えると、哲学的な深みが次々と立ち上がってくる。
その意味で、この作品は読書会にも向いている。人によってキンの象徴をどう捉えるか、沢村千代乃の死をどう解釈するか、等、議論の余地は非常に大きい。
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