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【書評】石川達三『青春の蹉跌』(新潮文庫、1971)

石川達三の『青春の蹉跌』(1968)は、そのタイトルが示す通り、青春という人生の危うい時期に誰もがつまずく瞬間を描いた、非常に含蓄のある小説である。

主人公の江藤賢一郎は、父を早くに亡くし貧しい家庭に育った。その出自ゆえに、出世栄達への欲望は強く、社会的成功を自らの人生の目標とする。しかし、彼の友人で左翼学生の三宅は、社会主義革命を夢見る理想主義者として、江藤を現実主義者かつ妥協主義者だと罵る。この冒頭の対比は、貧しき者が社会とどう向き合い、何を目指すのかという態度の違いを鮮明に描き出しており、作品の主題理解において極めて重要である。ここで重要なのは、どちらが正しいかを問うことではない。もし江藤の出世欲を誤りとして描いていたなら、本作は単なる道徳譚に堕し、文学作品としての深みを失ったであろう。

タイトル「青春の蹉跌」は、まさに本作の核心を射抜いた秀逸な表現である。「蹉跌」とはつまずきの意味であるが、それを江藤という個人ではなく「青春」という抽象的主体にあてているところに、このタイトルの巧みさがある。青春とは誰にとっても不安定でつまずきやすい季節であり、ここで描かれる蹉跌は江藤に限らない。江藤に殺された登美子にとっては、死そのものが、若さゆえに突き進んだ行為の必然的帰結であり、蹉跌の象徴と言える。さらに婚約者の康子にしても、江藤や登美子の行為に巻き込まれることで自己を見失うほどの影響を受ける点で、青春の蹉跌を経験していると言えるだろう。さらに、タイトルの奥深さは、冒頭に登場した左翼学生の三宅に対しても想像を広げられることにある。彼もまた、自らの理想と現実との間で蹉跌する青春を経験するに違いないという「アナザー・ストーリー」を心に浮かべることすら可能にしてしまう。

物語のスリル面でも、本作は高い完成度を誇る。浅はかなアリバイ工作を行う江藤と、それを冷静かつ老獪に突き崩していくベテラン刑事との対決は、心理戦として見事に描かれ、作品の白眉である。この緊迫感とリアリズムが、青春の蹉跌という抽象的テーマを具体的な事件として読者に強く印象付ける。

本作はプロット的にみてセオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇』(1925)とかなり似ているのは間違いないと思う。作品が世に出された時期的に見ても、石川達三が同作の存在を知っていた可能性は高いように思われる。とはいえ、総じて本作が戦後日本文学における青年期描写の傑作であると同時に、個人と社会、理想と現実、欲望と倫理の交錯を精緻に描いた作品であることは間違いない。タイトルの含蓄と物語構造の巧みさが相まって、読むたびに新たな解釈や感慨を呼び起こされる深い読書体験を得られていることに感謝している一冊である。

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