人生高みの見物

天下睥睨するブログ

二児、合気会入門す ー「無敵」を目指せ

■ 二つの道場を往く

わが家の子どもたちは、四年ほど空手を学んでいる。
そして今月(厳密には来月)から、開祖植芝盛平翁の本家本流とされる合気会に入門し、新たに合気道を学ばせることにした。
汗と気合の入り混じる空手の道場から、静謐な空気の漂う合気道の稽古場へ。
同じ「武道」でありながら、二つの空間はまるで異なる世界のように見える。

私はかねてより、子どもたちには合気道の精神を学んでほしいと思っていた。
その仕込みとして、少し前から塩田剛三師範の驚異的な映像などを時折YouTubeで見せるようになり、
その小柄な体から放たれる静かな力に、狙いどおり子どもたちも不思議な興味を抱いたようだった。

■ 「攻め」と「守り」のあいだに

空手は攻めることの武道、合気道は守ることの武道。
その印象は、単なる技術の違いを超えて、人の生き方そのものに響いてくる。
攻撃の中にこそ、自己の確立があり。
防御の中にこそ、自己の消融がある。

二つの武道を併せて学ぶということは、
ある意味で「存在」と「無」のはざまに身を置くことに似ているのかもしれない。

初めての合気道の稽古で、子どもたちは「前回り受け身」を教わった。
いきなり空手では見ない動きに、最初は戸惑いながらも、転び方を学ぶその時間に
彼らの目が輝いていた。

■ 技の果てにある「美」

空手にも合気道にも、極めた者の所作には美がある。
上級者の動きは、力強いのに柔らかく、速いのに静かだ。

空手の昇級試験で子ども達の演武を見ていると、上手な子とまだまだな子との間には
はっきりとした違いを感じる。
その理由を突き詰めると、そこには常にはっとさせられる美しさがある。
無駄のない動き、澄んだ呼吸、流れるような一挙手一投足。
それはもはや戦いのための動きではなく、自然との調和そのものではないかと感じる。

少し横道にそれるかもしれないが、この感覚はスポーツ全般に通じる。
たとえばイチローのバッティングフォーム、
たとえばロジャー・フェデラーのバックハンド、
たとえば井上尚弥のフットワーク……

いずれも、極限の精度と静寂の中から生まれる「動の美」である。
強さを突き詰めた先に現れるのは、結局「美しさ」なのかもしれない。

■ 「最強」よりも「無敵」へ

私が合気道に強く共鳴する思想の一つに「自ら仕掛けない」ことがある。
そこには、相手を倒すことを目的としない、静かな力の哲学がある。
だから合気道には基本的に組手がない。(流派によってはあるらしいが。)
攻撃ではなく、調和によって危機を鎮める。
その根底には、「最強」を超えた「無敵」という思想が息づいている。

無敵とは、敵がいないということ。
争いの外に立つということ。
この考え方に、私は深い魅力を感じる。

■ ある逸話

この点で、内田樹先生がどこかに書かれていたエピソードがある。
合気道の達人がいつも通う道の途中で、
弟子の一人が師を試そうと棒きれを持って待ち伏せしていた。
だがその日に限って、師匠は別の道を通ったという。

それは偶然ではない。
世界の流れと一体となる感性が、危険の気配をすでに察していたのだろう。
力よりも、静けさの中にこそ真の洞察がある。
この逸話に、私は合気道の神髄を見る。

■ 子どもたちへの願い

子どもたちに対して親として強く願っていること、
それは「争わぬこと」が「勝つこと」に勝るのだという心を培ってほしいということだ。
攻める勇気と、引く智慧。
その両方を併せ持つ人間に育ってほしい。

武道は、戦うための技ではない。
調和の中で生きるための道である。
まずは空手と合気道の二つの道を往くことで、
彼らがいつか、自分の「静かな強さ」を見つけてくれたら、それが何よりの喜びである。

P.S.
上の娘はいつかは剣道もやってみたいと言った。
素晴らしい。
剣道でも弓道でも居合道でも薙刀でも、好きなことに挑戦してさらに幅を広げてほしい。

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