映画の感想を述べることは、それほど苦にならない。
しかし本作『どうすればよかったか?』(藤野知明監督)に関しては、どうにも筆が進まなかった。
思うことは無数にあるのに、文字にした瞬間にすべてが薄く、軽く、陳腐になってしまうような感覚がある。
本作は、そういう種類の「言語化を拒むリアル」を抱えた作品である。
■ 「家」という物語にしがみついた家庭
本作の中心には、統合失調症を発症した監督の姉と、
それを 「家庭の中の問題」として外に出さないことに固執し続けた両親 がいる。
子どもが外で家庭のことを話したり書いたりすることを嫌がる親は珍しくないが、
この家族の場合、その度合いが極端だった。
医師や研究者として社会的地位のある両親は、
娘の症状をおそらく認識していながら、精神科に連れていくことすら拒み、
家の中に閉じ込めるようにして「外部の視線」から遮断してしまう。
なぜそこまで“家庭の恥”に対して過敏になるのか。
日本社会では長らく、
「家の名誉」>「個人の尊厳」
という価値観が根強く存在してきた。
社会的に高い地位にある家庭では特に、「問題がある=自分たちの失敗」と感じやすく、
「うちはちゃんとできている家庭だ」という物語を守りたいという心理が働く。
本作を観ていると、この物語を守るために家族がゆっくりと硬直し、
そこにいる人間がどんどん息苦しくなっていく様が、いやというほど伝わってくる。
■ 25年間の「偶然の記録」が、作品となった必然
藤野監督は、カメラを回し始めた当初はあくまでも記録のためのもであり、
特に何らかの映像作品にするつもりはなかった。
25年間、帰省の度にカメラを回し続けた。
「作品化」を前提にしていない映像は、乱雑で、整理されておらず、
だからこそ、観客に「生々しい現実」を突き付ける。
- 家族の空気が整えられていない
- カメラの前で人が「演じる」余地がない
- 時系列が跳ねていくことで、むしろ家庭の停滞が際立つ
映画を作ろうと撮られた映像ではなく、
どうしようもない現実に対処するために撮られた映像が、
結果的に強烈なドキュメンタリーとなってしまった。
編集は相当に苦労したと監督自身が語っているが、
その「編集しきれなさ」こそが、映画に圧倒的な重力を与えている。
■ 同時期に観た『マミー』との対照性
同じタイミングで、林真須美死刑囚の冤罪可能性をテーマに扱った
『マミー』も観た。(早稲田松竹で2本立てだった。)
こちらは最初からプロの監督が立ち、映画として構想されたノンフィクションだ。
この二作は、同じ「現実」を扱っているにもかかわらず、肌触りは極端に違う。
『マミー』は
- 取材構造が明確
- 物語の方向性が緻密
- 社会への問いが設計されている
いわば、「理解のためのドキュメンタリー」である。
一方で『どうすればよかったか?』は、
「理解できなさをそのまま提示するドキュメンタリー」だと言える。
監督自身が、撮りながら現実を理解しきれていない。
問いが答えに向かわず、ただ蓄積していく。
ここに、本作特有の重さと息苦しさがある。
■ 言葉にならないものが中心にある映画
実は『どうすればよかったか?』を観終わってから数か月が経つのだが、
ずっと感想が感想として形をもたなかった。
- 「どの言葉も、この映画には軽すぎる」
- 「言葉にした途端、嘘になる」
- 「そもそも自分にこの作品を理解できる素地があるのか」
そんな思いばかりが渦巻いた。
本作は、観客に「答え」を与えない。
ただ、見て、感じて、沈黙するしかない種類の現実を突きつけてくる。
胸の奥に何か火種のようなものが燻り続け、
ふとした瞬間に、
「どうすればよかったのか」という問いが自分自身の問題として立ち上がってくる。
■ さいごに
『どうすればよかったか?』は、
家族、ケア、沈黙、偏見、愛、無知、そして時間。
これらが複雑に絡み合い、ほつれ、再び絡まっていく様をただ記録した作品だ。
見ているだけで息が詰まる場面も多いが、
「家庭」という最小単位で起きる悲劇が
いかにして社会の構造と結びつくのかを考えさせられる稀有な映画である。
コメントを残す