人生高みの見物

天下睥睨するブログ

【書評】桶谷秀昭『草花の匂ふ国家』(文藝春秋、1999)

現代の政治屋達の体たらくに慣れて久しい身には、列強に伍していかんと立ち上がる維新の志士達の悲壮な姿はとても眩しかった。

桶谷秀昭『草花の匂ふ国家』(文藝春秋)。
中山国際法律事務所の中山達樹弁護士がメルマガで絶賛していたのを目にし、好奇心を掻き立てられ一気呵成に読んでしまった。

タイトルの由来

本書のタイトル「草花の匂ふ国家」は、芥川龍之介がレーニンを歌った一節

君は僕等の東洋が生んだ/草花の匂のする電気機関車だ

から採られているそうだ。

電気機関車=近代文明の象徴。
草花の匂ひ=東洋的な自然感覚、土と人の匂い。

桶谷は、この取り合わせの中に、「東洋が近代に向かう」という逆説的なイメージを見ている。
すなわち、

近代化=西欧化ではなく、東洋的精神を保持したまま近代へ歩むことこそ、日本の使命ではなかったか。

という問いだ。

本書は次の一文で始まる。

明治元年戊辰三月十四日、1868年の世界史の中に生きる意志を宣言した極東のこの国家には、アジアの草花の匂ひがした。もつとも、草花は、多少の流血にいろどられてはゐたが、まだその香気は消えてゐない。

この冒頭だけで、本書のすべてのトーンが決定づけられている。
「世界史の中に生きる意志」としての近代国家建設。その一方で、まだ消えてはいない「草花の匂ひ」。
血で染まった草花は、まさに戊辰戦争という内戦を経て立ち上がる明治日本そのものだ。

同床異夢

本書の主人公は、迷いなく西郷隆盛と大久保利通だろう。

維新直後の日本には、列強に伍していくための「国力を身につけねばならない」という、切迫した共通認識があった。
そこに登場するのが薩摩の二人の盟友、西郷と大久保である。

目的は同じだが、そのプロセスと世界の見方は大きく異なる。

大久保利通——有能かつ冷徹なる現実主義者

岩倉使節団の一員として世界を見てきた大久保は、大きな挫折感と共に日本の貧しさと脆さを痛感している。
そこから彼が導き出したのは、極めて現実的な結論だ。

つまり、一歩一歩着実に制度と経済力を固めなければ日本は生き残れない、ということ。

本書を通じて浮かび上がる大久保像は、現代の目から見ても「驚くほど有能な政治家」である。
と同時に、その有能さは、どこか「冷たさ」「孤独」を帯びてもいる。
国家を守るためには、情ではなく算盤を弾かなければならない——その役割を自ら引き受けた人物として描かれている。

西郷隆盛——徳と情の人、しかし算盤は弾けない

一方の西郷は、圧倒的なカリスマ性と「徳」を備えた人物として描かれる。
人が集まり、人が従い、人が涙する。そういう人である。

ただし、決定的な弱点もある。
西郷は算盤を弾けない。

合理性よりも「義」で動く。
国益よりも「筋」を通す。
だからこそ人々は惚れ込み、だからこそ大久保は頭を抱える。

桶谷は、この二人の関係性を、単に「理想 vs 現実」の対立としてではなく、
近代日本の“二つの魂”が分裂していく過程として描いている。

征韓論——非合理か、徳治政治の極点か

私は本書のハイライトを中盤の「七 征韓論」から「十 西郷参議を辞す」までと見ている。
序盤から燻ってきたそれぞれの思いがここで一気に膨れ上がり、そして弾け飛ぶ様は引き込まれること請け合いである。
敢えて言わせてもらえれば、これ以降の西南の役までの流れはおまけのような位置づけであると言ってもよいくらいである。

西郷は「全権大使として烏帽子・直垂姿で朝鮮に赴き、殺害されることを前提に戦争を起こす」という、にわかには信じがたい構想を抱いていたと言われる。

これは、現代の価値観からすると明らかに非合理だ。
しかし桶谷の読解に立つと、その意味合いはだいぶ姿を変えてくる。

西郷にとって外交とは、利害をすり合わせる技術ではなく国家の「徳」を示し、相手の心を動かす行為であった。その意味で彼は、自らの身命を賭して「日本の誠」を示そうとしたとも言える。

「殺されてもよい。その死をもって日本が正義を得て、名分を立てられるのであれば。」という思想には、儒教的徳治思想と武士道が結びついた、きわめて東洋的な政治観がある。
「死を恐れぬ誠」が、国家の行き先を開く——これは冷徹なリアリズムではなく、「徳治の合理性」とも言うべき思想である。

しかし、大久保はそれを受け入れない。
彼は「徳」を理解しつつも、「近代国家は名分ではなく国益で動かねばならない」と考える。
ここに二人の決定的な断絶が生まれる。

征韓論政変は、単に政策論争の結果ではない。
徳治国家 vs 官僚国家
という、日本の進む道を左右する分水嶺として描かれている。

伊藤博文・森有礼——「西洋化による近代化」の純化モデル

西郷・大久保の対立を立体的に浮かび上がらせるために、桶谷が巧妙に配置しているのが伊藤博文と森有礼である。

伊藤・森は、

  • 近代化=西洋化
  • 文明=西洋の制度と文化
  • 日本の“遅れ”=非西洋性

とみなし、徹底的に西洋制度を輸入しようとするタイプの人間として描かれる。

伊藤博文はプロシア型立憲君主制を理想とし、制度を文明の象徴とみなす。そして森有礼は、極端な英語教育論や、日本語廃止論にまで傾くほどの「文明開化」主義者として知られる。

ここまでくると、もはや「草花の匂ひ」はほとんど残っていない。

桶谷は、伊藤・森を通じて、
「近代化=西欧化」の純粋形を提示し、それと対照させる形で
西郷・大久保の位置を浮かび上がらせる。

木戸孝允はどこに立っているのか?

木戸孝允は、維新三傑の一人でありながら「中心に立たない人物」として描かれている。
西郷⇔大久保⇔伊藤・森という「対照的な明治国家観」があるとして、木戸はそのいずれにも置かれていない。

確かに通史では「維新三傑」の一人とされる。
しかし桶谷の描写では、木戸はどこか「アウトサイダー」の位置にいる。

理念と制度のあいだの「孤独な橋渡し」

木戸は、西郷の「徳」「義」「情」に共感しつつ、大久保の「制度」「行政」「現実」も理解し、伊藤の「近代」も飲み込もうとする非常に優れた知性の持ち主だった。

しかしこの多面性こそが、彼を孤立させる。
(個人的にはここに共感するところはある。)

木戸には西郷のように群衆の心を奪うカリスマでもなく、大久保のように国家を統べる実務の鬼でもなく、また伊藤のように合理性に徹した改革者でもない。

ゆえに木戸は、アウトサイダーとならざるを得ないのだ。

「草花の匂ひ」はどこで失われたのか

こうして見ていくと、本書は単なる「明治史の再現」でも「偉人伝」でもない。
桶谷が見つめているのは常に、日本は近代化の過程で、何を守り、何を捨てたのか。
「草花の匂ひ」は、どこで薄れていったのか。
という問いである。

  • 西郷は「徳」を貫こうとして、征韓論政変と西南戦争の果てに散る
  • 大久保は国家建設の重責を引き受け、やがて暗殺される
  • 伊藤・森は、制度としての近代国家を作り上げる

その結果、日本は列強の中で確かに生き残った。
だがその過程で、「草花の匂ひ」は徐々に薄れていったのではないか?
桶谷の筆は、その喪失感とともに、彼らの決意と犠牲を静かに照らし出しているように思えてならない。

さいごに

残念ながら本書は現在絶版であり、普通に書店で手に入れることは難しい。
私は図書館でようやく手に取ることができたが、「なぜこの本が今読まれていないのか」というもったいなさを強く感じた。

グローバル化と情報化の進んだ現在、「日本とは何か」「国家とは何か」という問いは、便利さと引き換えにどこかに押しやられてしまっている。

そんな時代にこそ、彼らの姿を通して、もう一度「草花の匂ふ国家」とは何だったのか、そして今の日本はどんな匂いがする国家なのかを問い直すことには、大きな意味があると思う。

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