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【書評】郷原信郎『「単純化」という病 安倍政治が日本に残したもの』(朝日新書、2023)

単純化がもたらす危うさ

不正はいつの時代にも存在する。戦後のヤミ米を拒んで餓死した法律家の逸話や、郊外で法定速度を守る車が周囲の敵意を浴びる光景は、私たちが「完全に正しく生きる」ことの困難さを示している。人は程度の差こそあれ不正に触れる。しかし社会は、有名人や権力者の不正にはとりわけ厳しく、彼らは「完全犯罪」を志向せざるを得ない。

だが現実には、承認欲求や慢心から脇が甘くなる。
回転寿司屋で醤油差しを舐めて動画を拡散する若者や、表では「ベストマザー賞」を受けながら裏で不倫のラブレターを送る著名人は、世間の「正義の鉄槌」を浴びる格好の標的となる。弱者はただ身を隠し、時の流れに身を委ねるしかない。

一方で、権力者は違う。強大な政治的基盤や支持層を背景に、マスコミも容易に切り込めない。彼らの不正は噂として燻るが、決して燎原の火にはならない。そして行き着く先は、多少の不正では揺るがない「強靭な政治システム」の構築である。郷原信郎が本書で指摘するのは、日本において安倍晋三が「多数決と法令遵守」という民主主義のルールを逆手に取り、「問題の単純化」によってそのシステムを作り上げたという事実だ。

「単純化」の功罪

森友学園問題や加計学園問題、さらには桜を見る会問題。これらは本来、複雑な利害や構造が絡み合う事案だった。しかし安倍政権はそれらを「首相や妻の関与の有無」という一点に単純化し、法令遵守の観点から「問題なし」と押し切った。多数決で議席を確保し、法の制定や解釈を自在に操る。形式的に「法令遵守」であれば、権力者の行為は正当化される。御用学者や御用メディアを抱え込み、国民の一部と大多数の無関心層に情報を流布すれば、問題は自然に収束していく。こうして「ちょっとやそっとの不正ではびくともしない政治システム」が完成した。

ここで誤解してはならないのは、単純化そのものが悪ではないという点だ。複雑な現実を理解するためにモデルやフレームワークを用いるのは科学的なアプローチである。しかしそれは仮説にすぎず、現実の複雑性を消し去るものではない。郷原が批判するのは、安倍政権が単純化を「現実そのもの」として語り、反証可能性を排したことだ。

暗殺事件が突きつけたもの

2022年、安倍晋三元首相は新興宗教二世によって銃撃され、命を落とした。この事件は、単なる個人の怨恨として語られがちだ。しかしその背後には、政治と宗教の複雑な関係を「法令遵守の範囲内」という単純化で覆い隠してきた構造がある。長年、政治と宗教の結びつきは「違法ではない」という単純な説明で処理されてきたが、その間に社会の深層には不満と歪みが蓄積していた。事件は、その地下水脈が最悪の形で噴出したものだと見るべきだろう。

つまり「単純化の病」は、政治的スキャンダルを覆い隠すだけでなく、社会の矛盾を見えなくし、やがて暴発を招く危険を孕んでいる。安倍元首相暗殺事件は、そのことを私たちに突きつけた。

有権者の責任

なぜ単純化がまかり通るのか。それは我々有権者の知性・教養・判断力が低下してしまったからだ。政治に知的興味を持たず、複雑な議論を避け、単純化された説明に安易に納得してしまう。選挙率の低さはその象徴である。政治的議論を職場やコミュニティで禁忌とする風潮も、民主主義の基盤を弱めてきた。

与党にとって最も重要なのは選挙で多数を占めること。そのための戦略は二つある。票田の取り込みと、国民の政治的知性を奪うことだ。後者が進めば、国民は複雑な問題を考えなくなり、単純化された説明に従うだけになる。これは民主主義の形を保ちながら、その実質を空洞化させる危険なプロセスである。

名著の条件

名著とは、読者の思考を広げ、議論を誘発する書である。その点で本書は間違いなく名著に数えられるべきだ。森友・加計・桜を見る会といった事案の分析はもちろん、安倍元首相暗殺事件を経た今こそ、この本の警鐘はより重みを増している。

複雑さを複雑なまま受け止める知性を取り戻さなければならない。単純化に安易に流される社会は、再び同じ過ちを繰り返すだろう。本書はその危機を示し、私たちに「考える責任」を突きつける。

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