人生高みの見物

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【書評】三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)

「読書はした方がいいですか?」

職場の後輩からまれにこの手の質問を受けることがある。
本を読むというという行為は動画やテレビを観るのとは違い、主体性が求められるし、何より活字を追うのは面倒くさい。
だからそのような質問をすること自体、読書に対してネガティブな印象を持っているのが本音に違いないが、社内でそれなりに読書家で通っている私に聞けば何かポジティブな側面を教えてくれるかもしれない、という淡い期待を持っているのかもしれない。

しかし私は誠実な読書家なので、いつもだいたいこのような回答をする。

「読書をすればたしかに世界が広がるよ? ただそのことが君にとって幸せなことかどうかはわからないけどね。」


「読書はした方が良いか?」という問いは「読書をすることは得かどうか」という問いである。
これは読書に限った話ではないと思うが、そもそも私はこういう「〇〇をすることは自分の得になるか?」という考え方はあまり好きではない。もちろん自分の中で考えてもらう分には一向に構わないのだが、それを他人に尋ねることははっきり嫌いかもしれない。

論語』の中に「子曰、君子喩於義、小人喩於利。」(里仁)とある。「子曰く、君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る。」つまり立派な人間は自分の行いが道義に適っているかどうかを重視するが、つまらない人間は自分にとって利益になるかどうかを重視する、ということだ。
この世界には千万無量の良書があることを知っているにもかかわらず、「読書はした方が良いか?」なんてわざわざ他人に質問する人は、よくよくこの言葉を噛みしめるがよいと思う。

もちろん本にもいろいろあって、利に直結するような本もたくさんある。たとえば試験の教科書になるような本や、様々な実業領域における専門書、あるいはいわゆるビジネス啓発本の類はそうだろう。私が言う「世界は広がるが、それがその人にとって幸せかどうかわからない」と言っている毒饅頭は、たとえば哲学書や思想書、小説や評論といった類の本である。これらは「生きるとはどういうことか?」とか「働くとはどういうことか?」とか「我々はどこに向かうのか?」といった人間にとって根源的なことをテーマにする。便宜上ここではこのような本のことを「教養本」と呼ぶことにする。

【注】
もちろん、ここで言う教養が読書によってのみ獲得されるなどとは、私はまったく考えていない。
人が自分の生の前提を問い直す契機は、仕事上の大きな失敗かもしれないし、誰かとの深い対話かもしれない。あるいは、子を持つことや、喪失を経験することによって初めて立ち現れる問いもあるだろう。
私を含むある一部の人間の場合、たまたまそれが長年にわたる読書という形を取っていただけの話であり、読書は教養への一つの経路にすぎない。

ところで、私はいわゆる超大企業に20年以上籍を置いて働いてきているのだが、自分がそのようなキャリアを辿っていることについて自分の性格に照らしてみた時に、それなりに合っていたと思う部分と絶望的なまでに合わず「人生の修行」だと思うしかない部分とがあると思っている。今回は後者について書く。

組織に属していると、およそ上司という立場にある者につまらない人間が多いと感じることはないだろうか。哲学や信念、人間味といったものがほとんど感じられず、上からの指示には一切立てつくことなく受け入れる反面、自分の権威性を保つために部下の言葉には逐一訂正を加えずにはいられない――そんな人物像である。

しかし、実は組織が大きければ大きいほど、そういう人間こそ組織をマネジメントする立場としては適している。
これは組織の側から考えれば単純な構造である。
組織とは一つの大きなシステムであり、そこに属する人員は部品である。末端の部品は多様であるほど組織としては魅力的だが、基幹部分の部品は規格が統一された汎用的なものでなければならない。したがって、管理職とは組織に選び抜かれた「良質な部品」でなければならないと言える。

考えてみれば、個性的な哲学を持ち、組織の利益よりも普遍の真理だとか五常(仁・義・礼・智・信のこと。)を愛する「魅力的な人間」ほど組織にとって扱いづらい存在はない。そのような者に組織の管理を任せることはリスクでしかなく、組織の規模が大きくなればなるほど、この仕組みはよりソフィスティケートされていく。
企業のような大組織にとって重要なのは、組織が繁栄し生き永らえていけるような後進の幹部社員を育てることである。そして幹部社員になるということは、すなわち「良質な部品」になることを意味する。そう考えると、彼らを育てるうえで「教養本」など百害あって一利なしでしかない。

率直に言えば、私は自分で言うのもなんだが、どちらかと言えばユニークな部品であろうと思っている。これは良くも悪くも、長年にわたり「教養本」という毒饅頭を食らってきたことに大きな原因があると思っている。
その結果、どっちを選んでも大して結果に違いのない些事にまで存在感を発揮する一方で、より根源的なテーマ――「生きるとは何か」「働くとは何か」といった問い――に対しては、業務と直接的な関係がないがゆえに一切関心を示さない没個性的な人間とは、根本的に相容れない。

だからこそ、組織の中で生きることは私にとって「人生の修行」なのである。
教養ある社会人は、自分の内面に培われた問いや哲学と、組織が求める規格化された部品としての役割との間で、常に摩擦を抱えながら歩むことになる。その摩擦こそが、読書によって広がった世界と現実の職場との奇妙な接点となる。そしてその問いや哲学は、必ずしも書物から得られたものである必要はないが、一度それを持ってしまえば、どのような経路で獲得したものであれ、組織との摩擦を免れることはできない。
その摩擦をも己の人生における興味関心の対象として相対化できるかどうか――これが「君にとって幸せなことかどうか」を分けるカギになると私は言いたい。

前置きが長くなり過ぎてしまったが、以上が三宅が『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』と題して問うた問いに対する私のアンサーである。

三宅によると、現代における労働者にとっての読書とは端的に「ノイズ」であるという。現代は、ネット、SNS、AIを駆使すれば一瞬にして情報が得られる時代である。ここで「情報」とは「ノイズの除去された知識」のことであり、「ノイズ」とは「他社や社会や歴史の文脈」のことをいうのだが、いちいち読書して思考してノイズを整理するというのは現代のコスパ・タイパからすれば間尺に合わない話だというのだ。

このような時代だから仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、「教養」さえも「情報化」される時代になってきていることはもはや驚くしかない。

こうした状況は、AIの本格的な台頭とも深く関わっている。AIが社会の隅々にまで浸透する時代において、改めて「人間らしさとは何か?」という観点から社会人に期待される役割が問われているのだ。

象徴的な例として、NTTが2023年に京都哲学研究所を設立したことが挙げられる。彼らは「価値多層社会」の実現を背景に、「世界中の人々が多様な価値観を認め合い、共存し、協力し合う社会の実現」を掲げ、「科学技術と経済の進展が人々のウェルビーイングや世界の平和に貢献・調和するための新たな価値観を提案する」ことを目指している。そして「目指すべき価値とは何か」「幸せとは何か」といった根本的な問い(big question)に答えることを通じて社会の変革に寄与しようとしている。これはまさに時勢を象徴する出来事だろう。

しかし、組織が求める労働者像が「良質な部品」である点が変わらない限り、残念ながらこのような取り組みは失敗に終わるに違いない。現に、現在「教養を得る」ことに対して象徴的に行われているのは「ファスト教養」という言葉に象徴されるものである。

ファスト教養」とは、日本のポップカルチャーに関する論考を数多く書き記しているライターであるレジー氏が自書で用いたことから広がった用語である。三宅はこれを、教養そのものから「ノイズ」を除去し、純粋な「情報」としてスピーディに吸収してしまうことを指すものとして使っている。
だが、そもそも労働者が教養を得ることが組織がねらうメリットにつながるのかどうか私にはわからない。仮にメリットがあるとしても、そのカギは「ノイズ」にこそあるのだ。
もっと言えば、教養とは情報ではない。思考という知的格闘を経てしか得られない個々特有の無形財産であり、効率やタイパの尺度で測れるはずがないものなのではないか。

時代に抗った意見であると認識しつつ、あえて言いたい。
AIやファスト教養が「ノイズを除去した情報」を量産する時代にあって、なおノイズに耳を澄ませることこそが人間らしさの証なのであると私は信じる。読書はその最も古典的で、最も確かな方法である。だから「読書はした方がいいですか?」という問いは、結局「人間らしく生きたいですか?」という問いに置き換えられるのだ。

【補記】
ごく最近、本書に関して興味深い議論の応酬があった。当方の書評の筋目からすると直接関係しない内容なので、紹介のみにとどめる。(URLの最終確認日:2025年12月15日)
飯田一史 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか(抄)
三宅香帆「『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』はどこが間違っているのか」はどこが間違っているのか

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