ーー物語から自由にはなれない
陰謀論という言葉を聞くと、多くの人は「どこかおかしな人たちの話」「自分とは無関係な極端な思考」を思い浮かべるかもしれない。
しかし、本書が一貫して示しているのは、陰謀論は決して遠くにある異常ではなく、私たちの日常のすぐとなり、あるいは私たち自身の思考の延長線上にあるという事実である。
本書を読んで印象に残ったことは、陰謀論を「誤った情報を信じてしまう人の問題」として処理しない知的誠実さである。
むしろ問いはこう置き直される。
なぜ人間は、陰謀論のような物語を必要としてしまうのか?
人は世界を「物語化」せずにいられない
偶然起きた出来事、容易に説明のつかない不条理、自分では制御できない世界の動きーー
人はそれらを、そのままの形で受け止め続けることができない。意図的かそうでないかにかかわらず、出来事をつなぎ、意味を与え、理解可能な形へと編み直す。
このような物語化は、世界を可読にするための装置であると捉えられる。
この点は、ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』や『Nexus』で繰り返し指摘してきた、人類史的な人間観とも重なる。
国家、宗教、貨幣、法、企業——私たちの文明を支えてきたものの多くは、自然科学的な意味での「実体」ではなく、人々が共有することで現実として機能する仮象(フィクション)である。
世界を物語として理解し、共有する能力こそが、ホモ・サピエンスをここまで繁栄させてきた。
物語化は非合理の産物ではない。むしろ、極めて人間的で、文明的な能力だ。
文明を生んだ同じ根から、陰謀論も生えてくる
だが、ここで重要なのは、その能力が光だけでなく影も生むという点である。
陰謀論とは何か。
それは多くの場合、見えないが強力な主体を想定し、複雑な出来事を一貫した因果で説明し、そして善と悪、被害者と加害者を明確に配置するといった具合であろうか。
きわめて完成度の高い「物語」である。
つまり、ここから文明化と陰謀論は、同じ根から生えている、ということができそうである。
世界を説明し、意味づけ、安心を得たいという人間の本性が、あるときは国家や法を生み、あるときは陰謀論という形で現れる。
だからこそ、陰謀論を「頭の悪さ」や「教育不足」で説明する議論には、どこか違和感が残る。
そしてその一方で烏谷の議論が説得力を持つのは、陰謀論を人間理解の問題として捉え直しているからではないかと思われる。
「必要な物語」と「危険な物語」は誰が決めるのか
では、どこからが社会にとって「必要な物語」で、どこからが「危険な物語」なのだろうか。
ここには直感的には線を引きたくなってしまいたくなるところだが、冷静に考えてみると、それを客観的に証明することはほとんど不可能ではないかと感じる。
なぜなら、何を「必要」とし、何を「危険」とするかは、常に情報をコントロールできる権力と切り離せないからである。
いつの時代も、権力者は「必要な物語」を作り、それに異を唱える物語を「危険なもの」と名指してきた。
一方、そのカウンターパートにとっては、権力側の物語こそが「危険」であり、自らの語る物語こそが「必要」なものとなる。
歴史は、このせめぎあいの連続で成り立ってきたとも言える。
これがSNS時代になって何が変わったのか。
情報量は日々爆発的に増加しつつも、それに比例して情報の可用性も担保されているのが現代である。
ここでは、陰謀論が突然増えたというより、物語を区別し、序列化する権威が弱体化したと考えた方が近いのかもしれない。
結果として、無数の「必要な物語」が同時多発的に衝突する状況が生まれている。
仮象から逃げることはできない
こうした状況を見ると、ファクトチェックや科学的知見だけで問題を解決できるという考えに、私はどうしても距離を置きたくなってしまう。
もちろん事実は重要だ。
しかし、私たちはそもそも仮象(フィクション)と共に生きる存在であり、それを完全に手放すことはできない。
では、どうすればよいのか?
中庸という、最も困難な態度
若干抽象的で古典的な話で恐縮だが、私が行き着いた答えは「中庸(メソテース)」という態度である。
人類の歴史を振り返ると、社会は常に極端に振れながら進んできた。
それは、あたかも右に振れ、左に振れしながら、結果的に真っ直ぐ前に進んでいる一輪車で走るようなイメージに近い。
社会のダイナミズムが生じること自体は止められないし、止めるべきでもない。
見極めなければならないのは、そのダイナミズムの重心がどこにあるのか、である。
それは、科学的知見だけでなく、哲学的・人文学的知見を併せ持って徐々に見えてくるようなものではなかろうか。
そう考えると、それをなし得るのはきわめてマイノリティであることも、残念ながら認めざるを得ない。
陰謀論に堕ちる分水嶺
私自身のことを言えば、ある言説に接するとき、できる限りその背後にあるメタメッセージを考えるようにしている。
誰が得をするのか、どんな感情を喚起しようとしているのか、どんな敵味方の配置が前提とされているのか。
もちろん、この態度自体が陰謀論と紙一重であることも自覚している。
「裏があるはずだ」という思考は、簡単に暴走する。
それでもなお、そこで陰謀論に堕ちるか否かを分けるのは、疑うかどうかではなく、疑いに飲み込まれないための教養なのだと思っている。
一つの物語に全賭けしない。
複数の説明枠組みを同時に保持する。
自分の感情が強く動かされた瞬間を、一歩引いて眺める。
それはきわめて不器用で、効率の悪い態度だ。
身体知の可能性
最後に、もう少し個人的な話を書いておきたい。
私は、二人の子どもに空手と合気道を学ばせている。
その理由の一つは、「危険のシグナル」を身体的に直感する能力を身につけてほしいからである。
武道では、間合い、重心、相手の力み、空気の変化を、言語化以前に感じ取ることが重要になる。
私はこの感覚が、そのまま情報環境にも当てはまると思っている。
過剰な断定、極端な善悪二元論、感情を煽りすぎる語り。
それらを「論理的におかしい」と判断する前に、どこかおかしいと身体が先に知っている。
頭だけでなく、身体の重心感覚もまた、陰謀論に飲み込まれないための重要な防波堤になるものであると信じている。
信じないためではなく、信じすぎないために
陰謀論を完全に排除することはできない。
物語から自由になることもできない。
それでも私たちは、判断し続けなければならない。
何も信じないことではなく、信じすぎないための姿勢を、頭と身体の両方で鍛え続けること、である。
コメントを残す