たまに、こんなことを言ってドヤる人がいます。
「どれだけ本を読んでも、結局は人と会って話さないと意味がないよ?」
この言葉を聞くたびに、「それって、本を読まない自分を正当化したいだけじゃないか?」と思ってしまうのですが、別にそう言ってその人と喧嘩しても仕方がないのであいまいに笑って頷いています。
ただ、この手の主張には、一定の真理が含まれているとも思っています。
ただし、それはあまりにも雑に語られすぎている。
そこで今回は、この問題を
精神論ではなく、確率論として考えてみたいと思います。
1. 読書と人との交わりは、どちらも「外界との接触」である
まず前提を揃えようと思います。
「読書」も「人との交わり」のいずれも「外界との接触」であり、そこから 自分の認識や思考を更新する刺激を受け取る行為です。
そこにドヤ氏との間で認識の齟齬はないはずです。
そして実際のところ、話していて驚くほど有用な示唆を与えてくれる人が存在するのも事実です。
問題は、その確率です。
2. 二項対立化
まずは一旦、かなり単純化して整理してみましょう。
(1)人との交わり
繰り返しですが、非常に有用な示唆をくれる人物は確かに存在します。しかし、そうした人物に巡り合う確率は現実にはかなり低いと思います。
もちろんこれは、大学生や社会人なりたての若い人々にとっては「会う人会う人が刺激」とか「我以外皆我師」といった状態になる可能性があることも含みおいて言っています。しかし年を取り自分の理解・経験・教養の水準が上がるにつれて相対的に「学びのある相手」は逓減していくはずです。
そして、人というのは事前に質を見抜くのは難しく、ノイズも多い存在と言えるでしょう。
(2)読書(特に良書・古典)
書籍というものは、世に出るまでに著者の推敲、編集者の検証、市場の淘汰、そして歴史による選別という超強力なフィルタを通過して存在しています。
そして我々は書籍を読む前に、様々な手段を通じて吟味して選ぶことができます。
また、これも同じく年を取り自分の理解・経験・教養の水準が上がるにつれて無駄な本に当たる確率を下げることが可能になります。
これらの整理だけで見れば、平均的・長期的な期待値では、読書の方が有利という結論に至ります。
3. 批判的検証
この主張は、ドヤ氏のような経験至上主義者に対して非常に有効な反論であると自覚します。「編集」や「歴史」というフィルタの価値による評価や自己の成長に伴う確率変化を織り込んでいる点も強力な援護になっているでしょう。
しかし、人との交わりには、「人生を決定的に変える人物との出会い」や「思考様式そのものを破壊する出会い」といった、極端に裾の重い事象が含まれることを見逃してはならないと考えています。
つまり人との交わりは、期待値で見れば非効率でも、一度の「大当たり」がすべてを覆す可能性があるということです。
4. 目的手段としての再定義
考えてみれば明らかなのですが、人との交わりと読書とどちらかが決定的に優れているはずがありません。これらは目的によって分けられるべきものでしょう。
低分散・高期待値の手段としての読書の役割は、認識を安定的に拡張し、思考の精度を高めるために用いるべきものと位置付けたい。
一方、高分散・低確率・高リターンの手段としての人との交わりの役割は、ややもするとエコーチェンバーに陥りがちな読書から離れて予期せぬ変数を導入し、既成の自己モデルを創造的に破壊するためのものと位置付けましょう。
同じ「成長」のためのものであっても、これらは位相が異なるものだということです。
もし貴方がどこがで件のドヤ氏に出会ったら、静かにこう答えることをお勧めします。
「その通りですね。人との交わりは、最大値を狙う手段としてとても重要だと思います。
ただし、期待値を担保する手段とは別ですが。」
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